ずぼら女子奮闘記

ずぼら女子がリアルでは言えないことを吐き出すブログ。

小鳥のさえずり

夢の国へ行った。
メンバーは中学の同級生。社会人になっているのにも関わらず、開園前、すなわち8時前にはディズニーに着く電車に乗って現地へ向かい、ずっと遊び倒して閉園の22時までディズニーにいた。総計14時間。しかも途中で椅子に座ったのはお昼ご飯にカレーを食べた時くらい。ぶっ通しで遊び続けた。

こんな体力と若さがまだ残っていたのか、と驚きが隠せない。
正直言うと、朝が早かったから夕方には疲れて帰って来ると思っていた。それなのに、ぶっ通しで、ノンストップで遊び続けた。なんだこれは。

先日購入した一眼レフを持っていった。カメラでみんなのことをたくさん撮ったらものすごく喜んでくれた。
「もっと撮って撮って!」と我先にカメラの前に来たり、「わたしも撮ってみたい」と言われシャッターを切らせてあげると面白さに感動していたりした。帰宅後に写真をシェアしたら、さらに喜ばれた。
荷物の1/2を占めていたカメラだけど、持っていって本当に良かったと思うし、こんなに喜んでもらえるならまたいろんな場所へ遊びに行きたいと思った。

大学時代の友人たちは、わたしがカメラを持っていって、撮影することは当たり前だと思っているだろう。だからこそ、写真を撮ってもあまり何も言われないけど、今回すごく感謝されて感動されて、なんだかすごく嬉しくなった。

例えばカメラに10万円かかったとする。1回喜んでくれたら10万円、2回喜んでくれたら5万円、100回喜んでくれたら1000円、とどんどん1回あたりのカメラの値段が下がって行く。要するにたくさん撮れば撮るほど安くなっていくのだ。これぞ減価償却!(違う)
ということは、カメラに最初投資したとしても、結果的にたくさん撮影すれば実質0円になるわけで、その上みんなにたくさん喜んでもらえて、わたしも撮影を楽しめて、メリットしかないのでは?結局そのような結論に辿り着く。

要するにカメラ沼に片足突っ込みかけているわけだけどまあそれもいいのかもしれない。

***

まるで小鳥がさえずっているかのように、むしろ小鳥じゃなくてもっと大きなアヒルくらいかもしれないけど、とにかくわたしたちはずっと話し続けた。並ぶ順番がぐちゃぐちゃになり、近くに来た人たちと、大して内容も覚えてないけれど、どれだけ口が動き続けてるんだってくらい、とにかく話し続けた。

学生の頃はグループでディズニーに行った時は乗り物に乗る組み合わせをじゃんけんとかで決めていたけど、そんなことも一切せず、自然な流れで、各々がなんとなく並んだ順番に座ったり隣になったり、なんて言うんだろう、昔と大事にするところというか、こだわるポイントが変わっているのかな、なんて思った。うまく言葉で表せないけれど。すごくバランスよく回っていたと思う。
大人になったのかもしれない。

中学を卒業して10年経っても、わたしたちの心は子供のままだ。大人になったところもあるけど、子供のままの気持ちや個性だってたくさん残っている。
みんながたくさん話しているところを見て、「小鳥がさえずってるみたいでかわいいな」と、そんな気持ちになった。

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わたしが書く意味

手を洗いながら、正面の鏡にうつった自分を見て「この人はだれだろう、ああ、わたしか」と思った。

いつもの喫茶店で手帳を開いて、色んなことを考えて、思い浮かぶ言葉を、ただただ書き連ねていく。
とある人に会ったときの、ひとつひとつの発言や行動を思い出して、意味を見出すこともある。
自分の感情のうねりをただそのままの勢いに任せて書いてみたり、人間観察をしてひとつの発見をした喜びを書いたり、様々だ。

なぜ文字にするのか。文章を書くのか。
人に読んでもらう文章と、自分のためだけの文章。
いや、自分のためだけの文章だけど、ほんとうはそれだって読んでほしい。読んでほしい相手は、家族だったり恋人だったり友人だったりする。文章によって変わる。
でも読んで欲しくない、読まれて、わたしの深い部分が知られて、相手を悲しい気持ちにさせたら嫌だ。自分が受け入れてもらえなかったら嫌だ。でもやっぱり読んでほしい。
そんな気持ちが渦巻いている。

なんなんだろう、自分をまるごと受け入れてほしい気持ちが深いところにはあって、でもそれはきっと難しいことだから、外に出すことと出さないこと、相手によってそれを使い分けること、それは生まれてから今までの生活の中で身につけてきた。

わたしがブログに書いているひとつひとつの記事には、読んでほしい相手が浮かんでいて、その人たちに向けて書いている渾身のラブレターなのかもしれない。

自分の気持ちを伝えたい人がたくさんいる。
普段面と向かってそんなことを言う機会はほとんどなくて、でもわたしはあなたたちのことが大好きなんだよ、こんなことを考えているんだよ、ってことを伝えたいと思っている、そんな気がする。

自分の過去のブログ記事を読み返すと、当時考えていたことが分かって面白い。こんなことで悩んでいたのか、あの人にこの気持ちを伝えたかったのか、そんなことを思い出す。

このブログを地球に例えると、わたしの気持ちはマントルあたりのレベルで書かれているのではないだろうか。核には到達しないけど、地殻ほど外側ではない、マントルくらい。通じるかな。

みんなは相手に自分気持ちを伝えたい、ぶつけたい、って思うことってそんなにないのかな。それは特定の相手だけではなくて、周りにいるたくさんの人だったり、友人たちだったり。
不器用なわたしはそれを書くことで発散しているのかもしれない。

 

最近のこと(2019.4)

こんばんはすだちです。日曜日の夜、また明日からのことを考えるとテンション下がるけど、どうにか元気を保とうとしてます。最近のこと、いきます。

 

ちょっと元気になった

3月から4月頭にかけて、メンタル系でどっかーんきてて、日常生活に甚大なる支障をきたしていたんですが、なんとか回復してきました。

遊びの計画立てたり、休日も2日間とも外に出かけたり、じっくり文章考えたり、自分見つめなおしたり、そんなことをする元気が戻ってきてよかったなと。

桜が満開になったくらいから元気になったような気もする。春のメンタルの乱れはすごいな。無理しすぎず慎重にやっていきたいです。

 

夢のある生活

この記事でも書いたけど、なんか自分の目標とか夢が明確に決まっていて、それに向かって努力するのってすごくいいなと思いました。

sudachigirl.hatenablog.jp

 自分の中ではすっかり忘れていたことを少し思い出して、前向きに前進していきたいなと。資格の勉強や新しいことはじめられたらなと思います。がんばるぞう。

 

ロシア語の勉強をはじめました

理由はロシアに旅行する予定があるから!いたって単純な理由。

4月頭からNHKラジオの「まいにちロシア語」を聞いてます。今はスマホでストリーミング再生できるからありがたいことこの上なし。しかも入門編は週3回。続けやすい。

毎日だときついけど、週3回くらいのペースだと継続できるような気もする。

夜寝る前とか、休日の朝とか、そんなペースで聞いてます。少しだけでも喋れるようになれたらいいなぁ。

 

優先順位を考えよう

自分の中で大切にしたいこと、一番大事だと思うこと、これは妥協してもいいんじゃないかな、なんてことを少しずつ整理していきたいなと。

人生の中で全てを完璧にやりきることなんてできないわけで、どうしても優先順位を付けて、大事なものを「大事だ」と言い張って守っていけるようになりたい。しっかりと順位を見極める、なにが「わたし」にとって大事なのか、世間体とか、そういうことを一回無視してもう一度じっくり考えてみる時期なんじゃないかなと思ったりしています。社会人3年目。自分の足で歩いていきたい。

 

こんな感じです。ストレス多くて大変だけど、なんとかやっていきたいですね、GW明けが今から怖いよ、そんな感じです、おわり。

夢、まだありますか

仕事帰り、いつもの喫茶店へ顔を出すと、彼女がいた。
正面に座ると、彼女はふんわりと笑った。

「久しぶりだね、1月の同窓会以来?」
「そうだね、あれ、あんまり久しぶりじゃないか、でもゆっくり喋るのは久しぶりだね」

目の前にはたくさんの参考書とノートパソコンが広げられていた。

「今ね、学会発表に向けて勉強してるの」
「えっ、すごい。もう大学は卒業したのに?職場的に出なきゃいけない感じ?」
「そう、この仕事はまだまだ勉強しなくちゃいけないことがたくさんあるから日々勉強だよ」
「っていうことは、今でも相変わらずまじめに勉強してるの?」
「そうだよ、しかも学会発表用の論文は英語で書かなきゃいけなくて」
「英語!!もう何年も触れてないよ〜すごいなぁ」

彼女とは10年以上の付き合いになる。
中学の時に同じクラスになって、テストの成績も同じくらい。高校の志望校も同じ。
毎回テストの成績で勝負しながら、切磋琢磨し合ってきたライバルでもある。

本人には口が裂けても言えないが、彼女はものすごい努力家で、静かに、淡々と、でも着実に努力を重ねて成果を出す人である。
そんな彼女の姿勢をわたしは昔から尊敬している。

仕事の話をしてもらった。
彼女の説明は、その専門のことを何も知らないわたしにとっても分かりやすく、納得できるものが多かった。毎日人と関わる仕事でもあるから、説明が上手なのだろう。
でもそれ以上に、彼女が努力してその専門分野の勉強をしていることが伝わってきた。

「勉強が楽しいんだよね、趣味の一環になってるからいくらでもできる」
彼女は再びふんわりと笑った。

***

彼女と別れて帰り道を歩きながら、自分の夢について考えた。
明確な目標を持って、毎日前へ進んでいる彼女は眩しかった。

そういえば昔から、目標に向かって努力を重ねる子だったなと、改めて思い出す。

わたしは前に進めているのだろうか。
毎日何かしらの成長をしているのだろうか。

自分の専門分野の学科へ進学すると決めた高校時代の、あのときの気持ちをゆっくりと思い出す。
生きている専門分野は違えど、頑張りたいと思った。彼女に負けたくないと思った。

10年過ぎても、わたしの中で彼女はライバルとしてまだ確固たる地位をキープしていることに気がついた。

いい刺激になったと思う。
2ヶ月前に買ったほとんど手付かずの参考書を手に、わたしは今日から勉強をはじめる。

「叶わなかった恋」という宝箱

ひょんなことがきっかけで、昔の恋について考えることになった。

昔の恋、すなわち叶わなかった恋。恋とはなにか、恋愛とはなにか、がさっぱり分かってなかったときにしていた恋でもあるのかもしれない。今でさえ良く分かってないけれど。

 

「叶わなかった恋」は美化されがちである。

叶わないなと、気づくなり思い知るなりした後でも、自分の中でどんどん美化されていって、気づいたら忘れ去られている。もう数年思い出すこともなかった人だっている。

それでも、昔恋をしていた人のことを思い出すと、その人に絡むいくつもの光景やその瞬間の感情をはっきりと鮮明に思い出すことができる。

もう少し掘り下げていけば、いっちょ前に10年以上昔のわたしと同じようにドキドキすることもあるのかもしれない、でも今、当時好きだった人に会ったところで、きっとドキドキしたりはしないんだろうなとも思う。少しだけ照れくさくなるかもしれないけれど。

 

人生に「もし」はないわけで、1秒前までの自分が、自分の辿ってきた全てであって、「もし」あのときに告白していたら、「もし」もう少しだけ好きな時間が長かったら、「もし」あの告白にOKしていたら、なんて考えるとキリがない。キリがないけど、そういったことを無意味に考えるのは面白かったりする。

偶然か必然か、今まで付き合ってきた人とは必ず遠距離恋愛になるという法則がわたしの中にあって、それでも今の人とは長く続いていて、そして日を追うごとに「好きだなぁ」という気持ちが大きくなっていっているのだから、こんなに嬉しいことはない。

 

それとこれとは別問題で、10年以上昔の恋について考えるのは楽しい。

卒業するときに書いてもらった寄せ書きの言葉とか、その時の会話とか、休み時間の何気ない会話とか、放課後の寄り道とか、メールアドレスをどうやって教えてもらおうかと考えていた夜寝る前の気持ちとか、教室で何気なく目で追ってしまうあの感じとか、やっぱりまだ覚えていて、それはわたしの学生生活の中の記憶の多くを占めている。

他の人が書いてくれた寄せ書きのメッセージなんてほとんど覚えてないのに、やっぱり当時好きだった人から書いてもらったメッセージの内容だけは覚えているのだ。

 

もう少し歯車が変わっていたら、当時叶わなかった恋が叶っていたかもしれなくて、でもそれを確かめる術はもうなかったりするし、確かめようとも思わない。

そっとわたしの中の宝箱にしまっておくからこそ、価値のある「恋」だったんじゃないかとも思っている。

 

なにがいいたいのか分からなくなってきたけど、昔のことを考えると照れくさくなりますね。

どうしても文章に残しておきたかったので、書きました。おわりです。