ずぼら女子奮闘記

ずぼら女子がリアルでは言えないことを吐き出すブログ。

スタバのない街

新幹線に乗る駅に着いたのは、予定時刻の3時間前。これからどう時間を潰そうかと話し合う。

お昼を食べて、軽く散歩して、お茶でもしようか、と話していると山下が「スタバの限定のピスタチオのやつが飲みたい」とぼそりと言った。山下が自分の希望を言ってくることは珍しい。基本的には「すだちの行きたいところに行って、食べたいものを食べよう」というスタンスだ。
わたしは山下が「何かをしたい」と言ってくれるのがとても嬉しくて、それを大事にしていて、ピスタチオの限定のやつにもスタバにも大して興味はないけれど、スタバに一緒に行きたいと思った。
相手がやりたいことを一緒にできる、それだけで幸せなのである。

山下の住む街にはスタバがない。少なくとも気軽に行ける距離にスタバはない。

わたしの住む街にはスタバがある。1時間半の通勤ルートの中で、寄ろうと思えば何箇所だってスタバがある。


***

クリスマスだった。
わたしは平日の仕事帰りにデパートに寄り、山下へのクリスマスプレゼントを購入した。帰宅途中に30分でも寄り道をすれば、予算や年齢に合わせた品揃えが豊富なデパートで、簡単にクリスマスプレゼントを買うことができる。

山下の住む街には、気軽に買い物ができる場所がない。電車を乗り継いで、大きな街に出て買い物をする必要がある。
年頃の女の子が喜ぶような、わたしの生活圏で気軽に見ることのできる商品を探しに行くためだけにも少なくない費用と時間がかかる。
わたしはその現実を理解しているつもりだ。

山下はクリスマスにわたしに会った時にプレゼントを大きな街で購入するつもりだった。わたしも、きっとそうなるのだろうな、と思いながら山下に会った。

わたしには基本的に物欲がない。そんでもってこだわりが強い。
「欲しいものを買ってあげるよ」と言われた時の途方の暮れ方はすごい。
いったいわたしは何が欲しいのか。最低限生活できるだけのものがあれば十分なのだ。
コスメやカバンや洋服は、欲しいけれど、お店に行ってすぐ「これが欲しい」なんて言えるほどのものじゃない。別にたくさん無くたって生きていける。
すごく吟味して、歩き回って探して、ようやく欲しいと思える品に出会えるか出会えないかなのだ。出会えない日の方がずっと多い。

少ない脳みそをフル回転させて、アクセサリーが欲しいと思った。
それも、山下が自分で選んでくれたアクセサリーが欲しいと思った。
プレゼントは物がもらえる、という嬉しさもあるけれど、その「プレゼント」を探して決定するまでの時間や手間、思考の方がずっとずっと嬉しい。何色が似合うかなって考えたのかな、少し恥ずかしくて照れながら買ってくれたのかな、とか考えた時の嬉しさったらない。

山下が選んでくれたアクセサリーが欲しいという意向を伝えたら「ぼくの住む街にはアクセサリーを売ってるお店がないよ」と言われた。そりゃあそうだ、電車とバスを乗り継いで、時間もお金もかけて買いに行かなければならない。
毎日仕事だってしている。人でごった返している大きな街に行くことはそれだけで負担は大きい。

わたしはそのことを承知している。
別にわたしだって身がよじれるほど、これがないと死んじゃう!って程欲しいわけでもないし(そりゃあもらえたらものすごく嬉しいし喜ぶけれど)、プレゼントをもらえなくて拗ねるような、そんな人間ではない。

わたしはプレゼントをあげたくてあげているし、それは勝手にわたしがやっていることだ。わたしは山下と一緒に居られる時間があるだけで十分なのだ。

未来の話をした。
山下は職場の人たちに「彼女を今住んでいる街へ呼びなよ」と散々言われているらしい。
山下の住む街へ行く、住む、ということはわたしにとってハードルが非常に高い。今までの生活がガラッと変わる。信じられないほどに変わる未来だ。
別に毎週末東京のキラキラした場所で遊んでいるわけではない。人混みは極力避けたいし、ターミナル駅にはよほどの用がない限り立ち寄らないようにしている。スタバだって年に1度利用するかしないかくらいである。
それでも生まれ育った首都圏に居る、ということは大きな安心なのだ。方言も文化も違うであろう地域へ単身飛び込んで行くことへのハードルは高い。

山下よ、東京に帰ってきてくれ。
頼む、東京に帰ってきて欲しい。

スタバのある街とない街、わたしの人生はどうなっていくのだろうか。
新幹線から見えた東京タワーに確かな安心感を覚えながら、3連休を終え、東京へ帰ってきた。

f:id:sudachitt:20181224191314j:image