ずぼら女子奮闘記

ずぼら女子がリアルでは言えないことを吐き出すブログ。

表現するということ

先日、大阪へ劇を見に行った。

スマートモテリーマン、ご存知の方もいるかもしれない。
めちゃくちゃ笑って、笑って、笑った。何かを見てこんなに声だして笑ったのはいつぶりだろうかと思うほどに。
最近有川浩シアター!や、又吉さんの火花を続けて読んだこともあり、舞台に立って表現する人の心情や裏方のドタバタなどにも思いを馳せながら楽しんだ。

 

舞台に立つ俳優さんが、とても魅力的に見えた。
"表現者"が集って、何ヶ月も真剣に向き合って、この舞台ができているのだと感じた。
ただかっこいいとか、かわいいとか、そんな単純な話じゃなくて身体を張って全身を使って表現している姿は、とても美しかった。

 

自分のまわりで魅力的に見える人は誰だろうかと考えた。
"表現"するツールを持つ人は輝いて見える。
それは、歌でも演劇でも漫画でも絵でも音楽でも本でも写真でも料理でも書道でもスポーツでもファッションでもブログでもツイッターでも。
何かに向かって自分の主張したいことを表現している人はキラキラしているように見える。

 

私は大学時代、なにかを表現していただろうかと考えた。
芸術系のセンスや趣味はほぼないので、そのようなサークルには入っていなかった。その代わり大学時代のエネルギーの95%を費やしていた活動があった。
多分その活動が私にとっての"表現"だったのだろう。責任のある立場に立候補し、組織を回した。広報や企画などという部署は目立つ。なぜなら"表現"しているから。自分の成果が人に伝わりやすい。
私の立場は縁の下の力持ち、裏方、黒幕(色々な意味がある)、地味、などの言葉で表現されるような徹底的な裏方だった。

裏の面倒なことは全て自分に降りかかる状態で、問題を解決させながら組織を回すことは他の何物にも変えられないような喜びとやりがいがあった。


ただ淡々と組織を回すだけでは何も残らない。宣伝用のビラだったり、イベントの企画をする人たちは自分たちの成果が残る。私に残せるものはなんだろう、と考えた時に"圧倒的な記録だ"と思った。
通常2.3枚で終わる引継書を延々と書いた。100枚以上書いた。周りからは「理解不能」と揶揄されながらも不思議と苦ではなかった。
こんな膨大な量、誰も読まないよなと思いつつ、ただの自己満足と未来の自分の記憶のために書き残せることは何でも書いた。

本来は後輩に見せるべきではないようなことも書いた。
膨大な私の記録をそっと部室のパソコンへ保存し、私はその活動から身を引いた。

 

***

 

引退してから数年経ち、現役の子の顔と名前はさっぱり分からない状態となった。
私のサークルは年に一度本番があり、その本番に今年も顔を出しに行った。かろうじて知っている顔もいくつかあるため、差し入れを持って行ったのだがその時に私の直属の後輩から言われた一言が忘れられない。

 

「すだちさんの引継書、いつも読んでます!すごく助けられました。たくさん残してくれてありがとうございました!」

 

なんてこった。お世辞かもしれない。お世辞だとしても、3.4個も離れている後輩からこんな言葉を言われるとは思っていなかった。
私自身、引継書を書いたことさえ忘れていた。

でも、確実に後輩へと引き継がれていったことを実感すると、何とも言えない喜びがじわじわと胸に広がった。

 

伝わる相手は少なくとも、これが私の、私なりの"表現"だったんだろうと3年越しに確信した。

 

今私が持つ"表現"できるツールはこの「ブログ」だ。
自分の考えや想いや経験をひっそりと表現するだけでも、随分と自分の支えになっているのだと思う。
この"表現"できるツールを大切にしながら、他の表現方法についても模索していきたい。
そんなことを思った12月の駆け出し。2017年もあと少し。