ずぼら女子奮闘記

ずぼら女子がリアルでは言えないことを吐き出すブログ。

「いつの間にか仲良くなっていた」

コロナ禍になって、対面授業がなくなった学生たち。「いつのまにか仲良くなっていた」という機会がめっぽう減ったのではないだろうか。自分が大学生だったころを思い出す。

大学の入学直後、人見知りを発揮していた私は、サークルの新歓へほとんど行かなかった。とにかく日々の大学生活や下宿生活になれるので精いっぱいで、新歓に参加する体力がちっとも残っていなかったからだ。本命のサークルだけ(頑張って)顔を出して、ギリギリで入部届を提出した記憶がある。周りの1年生たちは先輩や同期と仲良くなっている中、ひとりも友達がいない状態でサークルへ入部した。「いつでもきていいよ」と言われたけど、コミュ障人見知りを大いにこじらせていた私は、部室に用事が無くても行くなんてことはできなかった。

次第にサークルとしての活動が忙しくなっていき、自分にも「サークル活動」としての仕事が降ってくるようになった。先輩から呼ばれ、仕事を手伝う。すると、その場にいるほかの1年生と会話をする機会が自然と増え、少しずつ仲良くなることができた。顔を合わせる機会が増える度、少しずつ仲良くなっていく。たくさんいる同期の中でも「なんとなくこの子とは仲良くなれるかもしれないな」と思える子ができてくる。自分がサークルに馴染むまで10か月近くかかったが、それくらいの時が経過した頃にはすっかり仲良くなっていた。

同じ学部の同級生も、グループ活動や実験を一緒に行う、という過程を経て「気づいたら仲良くなっていた」ということがよくあった。能動的に仲良くなる努力をしなくても、仲良くなることができた。果たして今のオンライン授業のご時世、こういった「気づいたら仲良くなる」といった機会があるのだろうか。受動的でいた場合、友人を作ることはとても難しいのではないだろうか。今の学生はとても大変だと思う。

初対面の人とオンラインで話をするとき、情報として得られるのは、画面越しの相手の顔と、マイクを通して聞こえてくる相手の声、チラリと映る背景くらいだ。(背景もぼかしたりするからほとんど意味なさそう)共通点を見つけることが難しい。

直接対面してあった時に得られる情報は、とても多いことに気が付いた。相手の顔や声だけでなく、着ている洋服、ファッション、髪色、ヘアスタイル。持ち物、スマホケース。履いている靴、カバン。筆箱やポーチ。ノートの取り方。ペンの握り方。座り方や立ち方、歩き方。おどおどとしてる子か、元気いっぱいの子か、マイペースな子か。少したばこのにおいがしたり、香水の匂いがするかもしれない。教室や部室の香りも自然と感じる。話す時のトーン、声の高さ、息遣い。会話のキャッチボール。アイコンタクト。最初からリズムが合うと「仲良くなれるかも」なんて思ったりする。持ち物やファッションから共通点を見つけて盛り上がることもできる。

頻繁に顔を合わせていたら、相手の変化に気が付くこともできる。髪の毛切った?少し痩せた?ちゃんとご飯食べてる?最近食欲ないんだよね、夏バテかも。くまがすごいけど、最近寝れてる?昨日お酒飲みすぎて二日酔いでさ、あはは。寝坊して朝ごはん食べる時間なかったよ、レポートも終わってないから空きコマで仕上げなきゃ。ちょっと見せてくれない?昨日バイトが夜勤だったから全然寝てないんだ。眠いから寝るわ。エナドリ買ってこようかな。こういったどうでもいい会話こそ、大事だった気がする。どうでもいい会話を重ねて、親しくなっていく。

今の時代は、もっと別の方法で友人になることもできるだろう。能動的に動いて、オンラインの勉強会を開いたり、自分からSNS上でコミュニケーションを積極的に取りに行く。でも、それは全員ができるわけではない。今は新しい友人を作りたいとなったら、「友達を作る」努力が必要な時代だ。具体的な行動を起こして、自分からアプローチをかける必要があるだろう。能動的な行動を起こすためには、多大なエネルギーが必要となる。

大学へ行き、授業を受けていたら自然とできていた友人関係の構築が、コロナ禍の今、とても難しいだろう。(もちろん大学に普通に通っていたとしても友人ができなかった人もいるだろう、わたしは理系だったので同じメンバーで同じ授業を受け、実習や実験を通して学生同士のコミュニケーションをとる機会が多かったと思う)

自分も、コロナ禍の時代になってから新しくできた知り合い・友人はすべてインターネット経由である。自分からアクションを起こした。もしくはアクションを起こしている人に対し、勇気を出してメッセージを送ったことから始まっている。全て受動的な姿勢で友人を作ることは難しいだろう。

何を言いたいのか分からなくなった。桜の咲く季節、緊張しながら大学の門を潜ったあの時を懐かしく感じた。キャンパスに残してきた思い出は、今も色あせずに心の中に残っている。