課題をやる途中、文献に集中しているとPCのデスクトップ画面がスクリーンセーバーに切り替わる。流れてくるのは、昔の写真たち。ふと目の前の写真を見始めると、止まらなくなってしまう。
映し出される写真の90%以上がいわゆる「密」の状態だ。三密状態である光景も珍しくない。でも、「密」の中に写っている友人たちはみんな笑顔で、心の底からその場を楽しんでいることが分かる。
この期間に得たものもたくさんある。
遠方に住んでいる友人ともテレビ電話でコミュニケーションが取れること、部屋の居心地をよくすること、目に入るモノを減らすと集中力がずっと上がること、家の居心地と言うのはストレスの増減に大きく関わっていること、引きこもっていてもそこまでストレスが大きくないこと(内向性の高さのおかげか)、ネットに弱い両親も追い込まれればテレビ電話などに手を出し活用できるようになっていくこと(最初に面倒を見るのがすごくめんどくさいけど)、でも祖父母の世代になるとインターネットと縁がないとコミュニケーション手段は電話や手紙だけになってしまうこと、すぐに会えない環境でいきなりインターネットを使うことはハードルが高すぎて不可能なこと、ネットを介して顔が見える環境を整えておくだけでもストレスの軽減効果があるだろうこと。
そして、きっと、次に会えた時はとても嬉しいだろうこと。同居している家族としか顔を合わせない生活をして2か月近くが経つけれど、祖父母や友人や恋人に再会して、おしゃべりしたりビールジョッキで乾杯するときに、普段以上の喜びを感じることができるだろう。
遠出ができるようになったら、旅行に行けるようになったら、いつもの散歩コース以外の風景を見ることができるようになったら、どれだけ嬉しいだろう。
小笠原に行きたい。北海道に行きたい。九州に行きたい。温泉に入って、湯上りにビールを飲んで、日本酒飲みながらまったりしたい。旅先で地元の居酒屋をはしごして、いつもより贅沢に土地の幸を楽しみたい。特急電車に乗って、流れゆく景色をぼーっとみる時間を味わいたい。飛行機を降りた瞬間に「違った土地」である匂いや音を感じながら深呼吸をしたい。フェリーに乗って、周りを航海する船舶や島々、鳥を見ながら望遠レンズで追いかけたい。家に帰った後に、「結局全部整理しきれないんだよな」とめんどくささを感じながら、撮影した写真をHDDに写す作業がしたい。
シャッフル再生で東京事変の群青日和が流れる。「新宿は豪雨~」のメロディを聞くと、大学生のときに友人たちと首都高をドライブしたときの光景が浮かんでくる。
徹夜ドライブはもう体力的に厳しいけど、ちょっと遠いレンタカー屋までみんなで歩いて行って、車を借りて、遠くのラーメン屋を目指してドライブをした、あんなことがまたできたらいい。
気に入っているいつもの散歩コースは、今まであまり歩いたことのない道だ。坂を上って、畑の中を歩く。こんな時期でも関係なく、農家の人は毎日働いている。車1台が通るのがやっとの幅員の道路には、トラクターから落ちたであろう、新鮮な土の塊が至るところに散らばっている。夫婦や親子で犬を散歩させたり、ジョギングをしたり、普段全く気にもしない人々の「日常」に目が行く。
ポピーが咲いた、ネギが大きくなった、サニーレタスがみずみずしくて美味しそう、あそこの雑草が刈り取られてる、いつもいる犬が今日はお留守、あそこの土を耕した、じゃがいもが大きくなってきた、もう少ししたら元気に実るトマトやナスが見れるかな、などという、毎日野原を駆け回っていた小学生の頃に考えていたことを、再び考える。考えるというか、感じるようになった。
ずっと遠くに見えるタワーマンション。道路の向こう側から聞こえる電車や車の音。
近くの林の木々がそよぐ音。隣の家の風鈴の音。深呼吸。
忙しすぎた日常では絶対に気づくことのなかったこれらのこと。小さなころは大切にしていたはずなのに。
将来の生き方の希望がまたひとつ増えた。この非日常の中で再認識した日常を、忘れないようにしたい。