記憶から作品へ
今年、一眼レフを購入した。それまではミラーレスカメラを使っていた。一眼レフを購入した理由はたくさんあるけれど、純粋に「カメラが楽しいから」という理由で説明できたらと思う。
友達が、紅葉狩りに連れ出してくれた。大学の時からの友人たちで、わたしの病気のことも、今の状況も伝えてある。
わたしはカメラを持って行って、彼・彼女たちを撮影した。みんながはしゃいで遊んでいるところ、面白いことを言って爆笑しているところ、居眠りしているところ、一番の素の表情を撮らせてくれるのは彼・彼女たちで、そんな彼・彼女たちがわたしは大好きだ。
撮影した写真を家に帰って見返すと、我ながらいい表情が撮れたな、と思う。
普段はクールな子が爆笑しているところや、子供の気持ちに戻って走り回っている無邪気な笑顔、真面目な顔で運転しているところ。どれもこれもが、わたしの大切な宝物になる。
大学生の頃は「記憶を残したいから」という理由で写真を撮っていた。
人間の記憶のキャパシティには限界がある。その瞬間、その時の感情は、一生のうちでその瞬間にしかやってこない。せっかく楽しくて、儚くて、大切な瞬間を生きているのに、その瞬間を忘れてしまったら悲しいなと思った。いつか、昔の写真を見返してみんなで思い出話ができたらいいなと思った。そんな理由から、いろんな瞬間をミラーレスカメラで撮影していた。
大学4年間で撮影したデータ量は数万枚に及ぶし、皆が気に入ってくれて頻繁に使われる写真も何枚もある。
今でさえ、飲み会の時などに昔の写真を見返しながら、同じ話で何回も何回も笑っている。
一眼レフを購入してから、人の表情がよりリアルに、繊細に撮影することができるようになった。ミラーレスでは平面的だった写真が、立体的になったように感じる。素人だから、詳しいことは分からないけど、それでもミラーレスの時に撮っていた写真よりもずっと、いい顔が撮れるようになった。
今までは「記憶」のために撮影していた。でも今は「作品」にもなるのではないかと思う。それは、自分の中で、すごく大切にしたい、という意味の「作品」だ。何度でも見返したいし、その表情を切り取ったのはわたしなんだぞ、というちょっとした自負。その顔を、わたしと一緒にいた時にしてくれてありがとう、という気持ち。
友人の結婚式で写真撮影をしたこともあるけれど、技術力や知識や経験じゃ、プロの人の腕には到底及ばない。でも、わたしのカメラにしか向けてくれない、リラックスした笑顔があったりする。素人のわたしが対抗するのはおかしい話だけど、それでも、友人視点からしか撮れない写真がもし一枚でもあったのなら、わたしはそれを「作品」と呼びたい。そう思う。
前からやろうと思っていた、フォトアルバムの作成をいい加減はじめようと思う。最初はハードルを低めに設定して、いい会社やサービスが見つかればいいなと思う。
データは数えきれないくらいあるけど、それを全て見返すことはできない。おそらく、もう2度と見ることのない写真たちだってたくさんある。でも、印刷して手元に残せば
きっと、たくさん見返す機会がある。
わたしは人間が好きだ。
いろんな表情を見せる人間が好きだ。一瞬一瞬、感情が変わる人間が好きだ。
これは紛れも無い事実だ。だから、人間を撮ることが好きだ。
本当に、とっても好きなのだ。
でも、そんなに頻繁に友人たちを撮影する機会があるわけでは無い。一度ずつの機会を、大切にしたい。