目が覚めると、どんよりとした気持ちが全身を襲った。
如何ともしがたい感情を、どうにかやり過ごして朝食を食べる。
昨日は突発的に1時間ほど、友人とお喋りをした。本当は、1か月以上前から会う約束をしていたのだが、それも叶わず。もちろんオンラインだ。
就寝前の1時間程度の雑談はもしかしたらちょうどいいのかもしれない。でもやっぱりタイムラグや画面越しでは伝わらない細かい顔の表情だったり、言葉と言葉の空気の間だったり、同じ空間に居ないと共有できない「それ」を感じることができない現実にもどかしさを感じる。早く直接会っておしゃべりがしたい、そう、ただただ強く思った。
コロナのニュースにはうんざりなこと、暗かったり不安をあおるようなニュースは避けていること、家から一歩も出ない生活をしていること、引きこもり耐性は昔からあるから引きこもり生活はあまり苦ではないこと、それでもやっぱり遊びに行きたいこと、何よりしんどいのは旅行の予定が立てられないこと、仕事しながらラジオを聞くのが生甲斐になっていること。
「すだちは仕事や勉強中に何か聞かないの?」と聞かれた。そう問われて自分のことを考えてみると、基本的に作業中は無音かジャズを小音で流す程度であることに気が付く。ラジオや普通の楽曲だと「ことば」という新たな情報が流れ込んでくるため、集中できないんだろうなとぼんやりと考える。これも個人差が強く出るなと感じた。
普段はあまりHSPについて意識しないようにして生活をしているけれど、こういった何気ない日常会話で、如実にHSPとしての性質が自分にとって可視化されることがある。
というのも、あまりHSPという表現をしたくない、と考えることが増えている。それでも自分の気質を説明するにはHSPという言葉が一番簡潔な表現だから、そういった理由でHSPという単語を使っている。あくまで自分との自己対話の中のみだけど。
わたしがHSPという概念を知り、自分自身がそうであることに気が付き、生きやすくなったのは事実だ。というか、今まで生きづらいなと思っていたことへのひとつの解が出たような、そんな気持ちになった。その数か月後くらいから、急速にメディアでも取り上げられる頻度が増えた気がする、本を読んで以来全然メディア上での情報は追っていないけど、認知度も上がっているらしい。
YouTubeのお勧め欄に「HSP」関連の動画が表示される機会も増えた。なんとなく悔しくて、今まで一本も見なかったのだが、たまたま名前を知っているYouTuberの人がHSPに関する動画を出していて、見てみることにした。
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「敏感で繊細だけど前を向いて自分らしく生きられる人が本当に強い人だと思う」
そんな言葉が、コメント欄にあった。今年に入って一番胸を打たれた言葉だった。
わたしは一時期落ち込んだ、下を向いていたし、何もできない時期があった。
今は違う、少しずつだけど前を向いて、目標に向かって進んでいるという手ごたえがある。
昔から「強い」人間になりたかった。負けてしまうのが悔しくて、でも自分では自分の弱い所にしか目がいかなくて、自己否定の連続だった。新しい環境に慣れるのに時間がかかる、友達もあまりできない、大人数が苦手、不登校、怖い人にはびびってばっかり。きっと他の人から見たら、わたしの「強い」面もあるのだろうが、それを意識して自己肯定感があがるなんてことはちっともなかった。新しい環境にすぐ馴染んで楽しめて、大人数でもワイワイ楽しめる人こそ、周りをあまり気にせずに自分のやりたいように振舞える人こそが「強い」人間だと思っていた。
そういった人にわたしはなれない。もう、それは生まれ持った気質が全身で拒否をする、それは難しいと、わたしに向いてることではないと。
「前を向いて自分らしく生きよう」なんと難しいことか。なんと尊いことか。
「おちこむこともあるけれど、わたしはげんきです」という魔女の宅急便のキャッチコピーをふと思い出した。
言葉に毎日、力をもらって、今日も生きていきたい。